父と子の蔵物語
新しい仕込み蔵に受け継ぐもの。
 「雌伏のとき」が後継者を鍛えた。
 新しい仕込み蔵の前に立って、そこだけを見ていると、高田酒造場はこれといった波乱もなく歴史を刻んできたかのように思える。
 しかし、一年前に同じ場所にあった仕込み蔵は屋根が傾き、壁は落ち、きわめて危険な状態だった。
 100年間持ちこたえた古い蔵。今は跡形もなくなったその蔵には、どんな歴史の物語があったのだろうか。
 高田家当主として12代目又助を継承した高田啓世さんに、ここまでの道のりを聞いた。
はじめて本気で父は叱った
 子供のころ、高田さんは父親から叱られた忘れられない記憶がある。
「たかひろ、ビールの配達に行ってくれ。坂道に気をつけるんだぞ」
 小学校に上がったころから高田少年は商品の配達を手伝っていた。
 しかし、まだまだ小さな子供である。自転車に重いビールや焼酎を積んで舗装されていない凸凹道を走るのは、大人でも骨の折れる仕事だった。配達先は何キロも離れた隣村もあれば、長い坂道を自転車を押しながら登る山の中の家もあった。
 ある日、高田少年は配達中に自家製造の焼酎『秋穂』の一升ビンを割ってしまう。はじめてのことだった。
 うつむいて帰ってきた息子を、いつもはやさしい父は本気で叱った。
「この焼酎一本をつくるために、お百姓さんがどれだけ苦労して一粒一粒米をつくったか、よく考えろ。絶対にビンを割ったらいかん」
「気をつけていたんだけど。下り坂で自転車の車輪が道路の穴に入って、ボーンと上に撥ねて、そしたらビンが荷台から飛び出して…」
 声をふるわせ、今にも泣きそうな顔。だが、父は心を鬼にしても伝えたかったことがあったのだろう。
青雲の志か、稼業を継ぐか
 高田家は代々地主であった。焼酎をつくり始めたのは明治35年、9代目又助(本名・高田官治さん)からで、10代目の高田章さん、そして高田さんの父の健さんへと受け継がれてきた。
 健さんは次男。長兄が中学生のときに亡くなったことから稼業を継いだという。
 最初は嫌だったのではあるまいか。青雲の志は別のところにあったらしく、志望校の名古屋大学に合格したうえで、入学を辞退している。
 昭和23年に結婚。妻の寿子さんの実家は多良木町の恒松酒造本店。同じく球磨焼酎の蔵元である。ただし、当時の売上や勢いでは恒松本店の方がはるかに格上であった。
球磨焼酎の火が消えた
 健さんの人生は戦いの連続だったと言っていい。
 戦う相手は大きく三つあった。
 一つは戦争という激動の時代そのもの。二つは販売ルートをめぐる障壁。三つめは、自分の体をむしばみ続けた病魔との死闘である。
 昭和の大戦は球磨焼酎の蔵にも非常な苦難をもたらす。
 原料の米は統制品で手に入らず、蒸留に使う燃料も石炭から松になった。昭和初期の人吉球磨地方の蔵の数は100を越していたが、終戦後には一挙に半減してしまう。
 では、生き延びた蔵はいったい何をつくっていたのだろうか。ヒントは食料難の時代の代表的な農作物。
 そう、どこの球磨焼酎の蔵も芋焼酎をつくっていたのである。
 仕込みの時期になると、杜氏の一大集団として有名な黒瀬杜氏が鹿児島県笠沙町黒瀬からやってきて、あちこちの蔵に住み込みで働いていた。 
 高田酒造場も例外ではなかった。芋焼酎づくりは高田少年が小学校1、2年のころ、昭和40年のはじめまで続いたという。
 こうして高田酒造場は戦中戦後の混乱期をくぐりぬけたが、二つめの販売ルートをめぐる戦いは蔵の存続を極限近くまで追いつめる。
小さな蔵はカヤの外に
 創業以来、高田酒造場の生産量はわずか200〜300石ほどで推移していたようだ。全部売れたとしても、売上はたかが知れている。
 そういう状況なのに、蔵の唯一の銘柄『秋穂』は思うように売れなかった。完全手造りの『秋穂』の品質には自信がある。売れない理由は別のところにあったのだ。
 地元ではより生産量の多い蔵元を一手に取りまとめた有力問屋が幅を利かせ、圧倒的な力で小売店への販売ルートを押さえていたのである。
 高田酒造場はずっとカヤの外だった。どんなにいい焼酎をつくっても、有力問屋に遠慮してか、ここぞという小売店は商品を置いてくれない。メーカーとしては、まさに死活問題であった。
女だけで蔵を守った
 この流通障壁を打ち破るのは、結局、高田さんが帰郷してからのことになるのだが、その前に健さんと家族を三つめの死闘が襲う。
 実に18年間、健さんはガンとの戦いで命を擦り減らすのだ。
 高田さんが東京農業大学醸造学科に在学中に、直腸ガンが発覚。その後、喉頭ガン、胃ガン、肺ガン、肝臓ガンと次々に発病し、手術を重ねること5回。
 大黒柱が入院し、独り息子は東京暮らしで、家の中は女だけだったときの有り様はどのようなものだったか。寿子さんの話を紹介しておく。
「娘と一緒に酒屋さんに焼酎を売って歩きました。“また入院されたそうですね、大変ですねえ”と二本、三本と買ってくださった。切羽詰まったときに皆様から支えていただいた。その御恩は一生忘れられません」
 高田さんは、父親について話すとき、決まって次のように言う。
「親父はつらいことが多かった人生でしたが、私に蔵を残してくれた。これは本当にありがたかった。例え傷みは激しくても、蔵があるから自分で好きなことがやれた。先祖や親父にはものすごく感謝しています」
帰郷して大ヒットを飛ばす
 昭和59年、寿子さんが「この人だけが頼りでした」という高田啓世さん、25歳で帰郷。
 34年9月生まれ。姉二人がいる。中学時代は野球部のエース、人吉高校から東京農業大学醸造学科に進み、学費を稼ぐために在学中から民間旅行会社に就職。添乗員として全国各地の名所を歩き回っていた。
 この旅行業の経験が高田酒造場を取り巻いていた販売の壁の突破口になるのだから、人生は何が幸いするかわからない。
 創業以来の大ヒット商品は、高田さんが帰郷する前年に商品化した『くまとっくり』の二合ビン。中身は二年前に導入した減圧蒸留の新製品『五十四萬石』である。
 これを熊本市随一の観光地である水前寺公園の土産品店に持ち込んだ。店主は高田さんが添乗員のときからの顔見知り。
 頼み込んで『くまとっくり』を置かせてもらったら、これが飛ぶように売れたのだ。勢いをかって熊本空港、阿蘇山の火山博物館に持って行くと、たちまち売れ筋トップ商品に躍り出た。
 商品の品質に加えて、全国の名所の土産品を見てきたセンスと着想、そして観光客に狙いの絞った戦略がズバリと当たったのである。
 
『旬』に込めた父子の気持ち
 帰郷の翌60年、高田さんは専務となり、父親から経営を任される。杜氏にも辞めてもらい、いよいよ自分の力で焼酎づくりが始まった。
 高田さんは遊ぶこともなく、若さと体力に任せて没頭し、次々に新しいタイプの商品を開発していく。
 63年には『オークロード』『原酒』を発売。水前寺公園や熊本空港でも人気を集め、今なお売れ続けている。モチ米焼酎『時と夢と人』、アイガモ農法米を使用した『郷の鴨遊び』はどちらも日本で初めての商品化だった。明らかにそれまでとは違う上昇サイクルが高田酒造場で回り始めていた。
 平成9年、回復の見込みのない5回目のガン手術で入院する直前の父に、高田さんは新商品の文字を書いてもらった。商品名は、今が盛りという意味の『旬』。
 後継者として一本立ちした息子は、『旬』の文字に父への思いを託したのだろう。
 筆に墨をたっぷり含ませて、健さんは『旬』の一文字を力強く書いた。
 そのときの父は寡黙であった。しかし、口には出さなくとも、父と子の気持ちは伝わり、それまでの苦労はいっぺんに報われたのではないだろうか。
 平成10年4月、高田さんは熊本国税局の酒類鑑評会において、九州の焼酎の蔵で最高とされる焼酎製造場の代表受賞蔵を授与された。
同年7月、健さん死去。享年69歳であった。


 14年6月10日、思い出のいっぱいつまった古い蔵の解体作業が開始。12月25日、新蔵竣工。
 みんなの「夢」があったのだ、この新しい仕込み蔵には。
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